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『耳をすませば』実写映画化について思うこと【前編】〜ジブリアニメと原作漫画の違い

 

 あの『耳をすませば』が実写化される。

 

最初にその一報を聞いたとき、アニメの名シーンの数々が記憶の中から一気に溢れ出てきた。

数あるジブリ作品の中でも繰り返し観た作品のひとつ。自分の過去と緩やかに混ざり合ってもはや思い出の一部と化している。

 

そんな作品が果たしてどんなふうに復活するのか?期待と想像は否が応でも高まる!

 

eiga.com

 

でも、少し冷静になって考えてみると、今度、製作される映画は、厳密にはジブリアニメの続編でも実写版でもない。

原作のクレジットは、同じくジブリが原作とした柊あおいの同名少女漫画。

配給はソニー・ピクチャーズと松竹というスタジオジブリとの馴染みは薄い会社だ。

 

 

ということは、アニメから感じた『耳をすませば』らしさが、ジブリオリジナルの要素だった場合、それが今度の実写作品で同じように描かれるかはどうかは怪しいところ。

 

そもそも、原作漫画とジブリアニメは、どれくらい違いがあるのか?

その差に今度の実写映画のヒントが隠れてるかもしれない。

気になったので原作を読んでみた。

 

(予想以上の長文になってしまいました。)

 

柊あおいによる原作『耳をすませば』 

 

少女漫画誌「りぼん」1989年8月号から11月号に連載。1990年に単行本化。2005年に文庫化。

 

あらすじ

読書が大好きな女子中学生・月島雫は、図書館から借りてくる本の貸出カードに天沢聖司という名がいつもあることに気づく。そんなある日、電車で出会った猫に導かれて、地球屋という不思議な店にたどり着く…。

 

 

読みやすい。

全体の流れはジブリ版とほとんど変わらない。

序盤は、衣装や台詞までそのまま同じという部分も多い。

普段、少女漫画を全く読まないので、他の作品と比較することはできないが、恋愛モノにしては思った以上に、あっさりとしていて、“恋心”というよりも“憧れ”に近い、爽やかさがあった。

 

原作者・柊あおいは、作品の構想をこのように語っている。 

 恋愛だけでは終わらない、もっと広がりのある世界(中略)異性との関係も、人間的な深いつながりとして描けたらいいなって思ったんです。*1

 

結果的には、そういうところが読者の期待とは違ったようで、当時は大きな支持を得られずに、連載はたった4回で打ち切りとなった。

そのため、物語の後半はかなり急展開な形で完結を迎えている。

 

 

スタジオジブリによるアニメ化

 連載終了から3年ほど経ったある日、柊のもとに担当編集者から一本の電話が入る。

それはスタジオジブリが『耳をすませば』を映画化を企画しており、原作者の了解を得たいという内容だった。

 

宮崎駿は義父が建てた山小屋に姪たちが残していった少女漫画誌でたまたま『耳をすませば』の第2回を読み、アニメーション映画の原石としての可能性を発見していたのだ。

 

少女マンガの世界が持つ、純(ピュア)な部分を大切にしながら、今日豊かに生きることはどういうことかを、問う事も出来るはずである。*2

 

原作を改めて単行本で初めから読み、検討を重ね、高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』の制作が佳境に入った頃、社内の企画検討会を経て映画化が正式に動き出す。

宮崎自身はプロデューサー・脚本・絵コンテを担当し、監督には近藤喜文が就任。

こうしてスタジオジブリによる映画『耳をすませば』が誕生する。

 

 

アニメと漫画の際立った違い

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このような経緯があることから、ほとんど同じ物語でありながらも、原作の短い連載では描き切れなかったものを、ジブリが独自に膨らませたという部分も少なくはない。

 

特に目立つのが次のもの。

「青春のきらめきを、リアリティと共に描くこと」

「夢を追い、自分を見つめ、高めていくこと」

 

では具体的にどんな差があるのか?

馴染みのあるジブリ版を基準に見てみよう。

 

 

舞台設定

ジブリ版では「都会生まれの人間にとっての“ふるさと”を描く」という、ひとつのテーマによって、東京都多摩市・聖蹟桜ヶ丘周辺を主な舞台としている。

コンビニ、団地、住宅地、駅や繁華街などの街の景色が、写実的な背景美術となって再現された。

 

一方、原作では特定の場所を舞台として設定してはいない

 

雫の家にしても、ジブリ版では書籍や生活用品で溢れかえった団地の一室、寝室は姉と共同だが、原作は一軒家で一人部屋

「読者にとっての“理想”を描く」という少女漫画らしい表現になっている。

 

 

キャラクター設定

 

月島雫

ジブリ版では中学3年、原作では中学1年。

この差もあってか原作ではまだ進路に関する不安は見られない。

 

(映画公開に合わせて「りぼんオリジナル」に掲載された柊あおいによる読み切り『耳をすませば 幸せな時間』では中3の夏休み、受験生になった雫のエピソードが描かれている。)

 

ジブリ版の雫は、現代的で等身大、明るくもどこか上品。

身近にいてもおかしくないと思わせるような説得力がある。

一方、原作ではより一層、明朗快活な女の子として描かれ、表情もころころ変わる。

 

 

天沢聖司

年齢は雫と同じく、ジブリ版が中3、原作が中1。

童話や幻想的な物語を読むのが好きなことが、原作ではより明確に描かれている。

 

天沢聖司の設定には重大な違いがひとつ存在する。

それは、ジブリ版で聖司はヴァイオリン作りの職人を目指しているのに対して、原作では絵描きを夢見ているということ。

 

なんと原作の聖司はヴァイオリンを弾かないのだ!

 

実はこの部分の変更こそが映画化の発端だったそうだ。

もしも、その少年が職人を志していたら……。中学卒業と共に、イタリアのクレモーナに行き、そこのヴァイオリン製作学校に入って修行をしようと決めていたら、この物語はどうなるだろう。(中略)ずっと遠くを見つめて、少年は着実に生きている。われらがヒロインが、そんな少年に出会ったらどうするのだろう*3

 

 

天沢航司

原作にだけ聖司の兄が登場する。

ジブリ版では、聖司が末っ子だという言及があるのみ。

 

ちょっと変人の高校1年。

雫の姉・汐の同級生。

趣味は写真。

 

雫は、聖司との最悪な出会いとは対照的に、航司には初めから好感を持ち、憧れをのぞかせる瞬間もある。

航司の存在自体、原作でしか味わえない魅力のひとつになっている。 

 

 

月島汐 (雫の姉)

ジブリ版では大学生。原作では高校1年。

 

ジブリ版では目的に向かってテキパキと行動する自立した人物として描かれている。

一方、原作ではごくありふれた理想的な高校生の姉という表現になっている。

天沢航司といい感じの仲。

 

 

月島朝子(雫の母)

ジブリ版では大学院に通っていて、雫の姉、汐と同様に明確な目標を持った人物。

原作にはほとんど登場しない。

 

 

西司朗(地球屋主人)

ジブリ版では雫と聖司の夢を優しく見守り、導いていく印象深いキャラクターだが、原作では名前もなく役割も小さい。

 

原作の地球屋はアトリエというより雑貨屋という雰囲気。

地下の工房にあたる場所は、原作では屋根裏部屋。

 

 

ムーンとルナ

原作では雫は2匹の猫と出会う。

雫が電車の中で見かけて追いかける猫は、航司の猫ルナ(♀)。

後になって、聖司の猫ムーン(♂)が登場する。

 

ジブリ版ではムーンのみ登場。

聖司の飼い猫ではなく、世間を渡り歩く“自立した”野良猫。

原作のムーンは人見知りで聖司にしかなつかない。

 

原作ではルナもムーンも黒猫だが、ジブリ版では『魔女の宅急便』のジジと被ってしまうこともあって、ビジュアルが変更されている。

 

 

その他のキャラクター

ジブリ版と原作に共通の登場人物として、雫の父・月島靖也、保健室の高坂先生、雫のクラスメイト原田夕子、杉村などがいるが、設定に大きな違いはない。 

 

 

 

 ジブリ版にしかない場面 

こうしてキャラクターをひとり一人見ていくと、ジブリ版では、ほぼ全ての人物が「夢や目標を追っている」か、「夢や目標を追う人を後押ししている」かに分けられる。

 

この先も心配することは何もないと思わせてくれるような、未来への明るい希望が映画から感じられるのは、そういうこととも関係しているのかもしれない。

 

キャラクター以外にも、ジブリ版だけでしか描かれない重要な場面がいくつかある。

 

 

カントリー・ロード」とその訳詞

聖司のヴァイオリン演奏で雫が歌うシーンは、映画のひとつのハイライト。

キャラクター設定でも書いたとおり、原作の聖司はヴァイオリンを弾かないので、この場面はジブリ版にしか存在しない。

 

ジョン・デンバーの名曲「Take Me Home, Country Roads」は前述の「都会生まれの人間にとっての“ふるさと”を描く」というテーマを象徴するものとして、第2の原作とも言えるものとなっている。

 

劇中で雫が訳す設定になっている「♪カントリーロード、このみち~」というおなじみの日本語歌詞は、映画のために作られた。

(映画プロデューサー鈴木敏夫の娘による大胆な意訳詞。ということは、去年ラグビーW杯で話題となった「ビクトリー・ロード」はいわば、替え歌の替え歌だ。)

 

「故郷を思いながらも、ひとり遠くへ旅立ち、帰らず頑張る」という内容が、聖司がイタリアへ修行に行くという設定にもマッチしている。

 

 

「バロンのくれた物語」

雫が書く物語の世界が展開する劇中劇のシーンはジブリらしさ全開だ。

この幻想的な場面は、画家の井上直久とのコラボレーションで制作され、宮崎駿は絵コンテ・脚本のみならず、イメージボードから演出まで手掛けている。

 

雫が書く物語は原作にも存在するが、連載の終盤になってはじめて書き始めるため、あまり多くは登場しない。

 

細かいところでいうと、フンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵というバロンのフルネームや、離れ離れになってしまった恋人・ルイーゼもジブリ版オリジナル設定。

 

 

 聖司のプロポーズ

少女漫画のセオリーとして、ラストは主人公ふたりがお互いの気持ちを確かめ合うことで、ハッピーエンドを迎える。 

朝日の見える高台での告白は、そのまま原作から引き継がれた。

が、ラストに深い余韻をもたらす、あのプロポーズの言葉が出てくるのはジブリ版だけだ。

 

あれは宮崎さんが「聖司がただ雫に『好きだ』と言うだけじゃ弱い」と言われましてね。あくまで「あの白いモヤの向こうを見据えて、二人で歩き出そう」という決意としてのセリフなんですよね。(中略)若い人たちにもっと自分の気持ちを素直に言葉に出したらいいのにという思いを込めて、「結婚してくれ」にしたんです。*4

 

 

新作の実写映画ではどうなるのか?

他にもまだまだ違うところはあるかもしないが、これが原作漫画『耳をすませば』がジブリアニメ『耳をすませば』になるときに発展した、おおよその内容だ。

もっと知りたい方は、ぜひ一度、原作を手に取ってみてください。

 

さて、ここまできてようやく今度の実写映画化に話は戻る。

 

実写では雫と聖司の物語をどう描くのか?

どういった部分にフォーカスをあてるのか?

今、再び映画化する意味は?

 

 

 

 

膨らむ妄想は次回、後編につづく。

 

(…たぶん)

 

 

*1:対談 近藤喜文柊あおい「好きな人に会えました」より抜粋

*2:宮崎駿「なぜ、いま少女マンガか?~この映画の狙い~」より抜粋

*3:宮崎駿「なぜ、いま少女マンガか?~この映画の狙い~」より抜粋

*4:対談 近藤喜文柊あおい「好きな人に会えました」より抜粋